本校の歴史と伝統
創立140年、明成高校の歴史と伝統をひもとく「校内に建つ頌徳碑と初代校長、五代校長の胸像物語」伊達 宗弘(仙台大学客員教授、宮城県図書館顧問) 明成高等学校・仙台大学を経営する朴沢学園は明治12年、仙台市本荒町(現青葉区一番丁)に裁縫学校「松操私塾(しょうそうしじゅく)」として創設された宮城県で一番古い学校です。 明治初期の政府の大きな課題の一つが、女子の就学率を向上させることでした。(宮城県内の明治10年の男子の就学率61.1%、女子8.3%) そのため裁縫という実学を導入することによってそれを実現しようとし、果敢に応じたのが仙台藩校養賢堂で学び俊秀の誉れ高かった初代朴澤三代治先生です。 当時までの裁縫の教育は、一対一で教えていました。三代治先生は「裁縫教授用掛図」を作成し一つの教室で一度に20人~30人を教える一斉教授法という画期的な教授法を考案し、大きな成果を上げたちまち全国の注目を集めました。 まず作ろうとする作品の全体の姿を掛図によってしっかりと把握させ、実物よりも小さい雛形を作らせ、一人ひとりが着物や袴、合羽などが最初から最後まで縫えるような教育をほどこしたのです。 さらに礼法・古典・音楽など女性として生きていく上で大切なものを積極的に教えました。 評判を聞きつけた多くの人たちが全国から集まり、松操私塾で学びました。遠くから来る学生のため自宅を開放して寄宿生として受け入れました。さらに夏季には短期研修生を全国から受け入れました。 この素晴らしい教育方針を多くの人に理解してもらうため明治13年には第2回内国勧業博覧会へ、明治17年にはニューヨーク教育博覧会へ、明治23年には第3回内国勧業博覧会へ出品するなど全国ベースでの活動を展開しました。 卒業生の多くは小学校の裁縫教員として、あるいは自ら裁縫学校を設立し、地域の女子の地位の向上に努めました。 先生の編纂した『裁縫教授書』は明治17年には教科書に指定され、全国の女子がこの教科書で裁縫を学びました。渡辺学園(現東京家政大学)とともに裁縫教育を通して女子の地位向上に果たした功績は図り知れません。 この功績が称えられ三代治先生は明治27年国から藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を授与されますが、明成高等学校内にある頌徳碑(しょうとくひ)は、そのとき全国各地の教え子たちが先生の功績を末永く伝えるため建立されたもので、当初仙台市の榴ヶ岡に建立されたものがいまの場所に移築されたものです。 初代三代治先生の尊い理念は、二代朴澤三代治先生、三代朴澤ひろ先生へと引き継がれていきました。 更に施設の内容の充実を図るため昭和12年朴澤家は全ての私財を寄付し「財団法人朴澤松操女学園」を設立しました。 |
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四代校長朴澤三二先生は東北帝国大学の理学部教授(生物学)のかたわら校長を兼務し、東北大学をはじめとする大学から多くの俊秀を集め講義を担当させました。 愛弟子(まなでし)の一人である理科を担当した加藤陸奥雄先生はのち東北大学学長になるなど、ここで教えた先生や学んだ生徒たちは全国各地で活躍しています。 このような素晴らしい歴史を刻んだ朴沢学園ですが、昭和20年の仙台空襲で学校は全てを失ってしまいました。 先生も生徒も呆然と学校の焼け跡に立ち尽くしていたといわれます。 130余年の激動の時代、常に進取の気質で果敢に新しい時代を切り開いてきた先生や生徒の努力のなかから、実学尊重、創意工夫をモットーとする明成高等学校の校風がかたちづくられてきたのです。その校風は先生や生徒の努力によってこれからも高められていくことでしょう。 校舎に残る初代朴澤三代治先生の功績を称える頌徳碑や胸像、五代朴澤綾子先生の胸像は、先人の功績を後世に末永く伝えていきたいとする、全国の卒業生の感謝の気持と熱い思いによって建てられたものです。 私たちが生きていくうえにおいて一番大切なことは、自信と誇りを持って語れる日本やふるさとそして心の原風景があることではないでしょうか。それがあってこそ誇りを持って生きることができ、また堂々と世界に伍していくことができるのではないでしょうか。 皆様方の学ぶ明成高等学校は、それに充分応えることのできる素晴らしい歴史や文化を刻んできたのです。 第13代校長 中村 勝彦 |